最初の人
沢木耕太郎

(1999年6月27日付け日本経済新聞(文化欄)から)

また大切な人が亡くなった。五月四日、長洲一二先生がなくなったのだ。

長洲先生は私の大学におけるゼミナールの教官だった。しかし、先生が私にとって「大切な人」だったというとき、それは単にゼミナールの教官であったからというだけが理由ではない。先生は、いわば「最初の人」だったのだ。

もちろん、先生がいなければ、文筆を業とする現在の私は存在していない。大学を卒業して就職したものの、たった一日で会社を辞めてしまった私に、「何か書いてみないか」と声を掛けてくれたのが長洲先生だった。すべてはそのひとことから始まった。

しかし、先生が「最初の人」であるのは、私をジャーナリズムの世界に送り出すきっかけを作ってくれた人としてではないのだ。

それは私が十九歳から二十歳になろうとしているときのことだった。初冬のある日、私は鎌倉の長洲先生の家に向かっていた。

当時、私は経済学部の二年生でゼミナール選択の時期を迎えていた。だが、経済学という学問そのものに興味を失っていた私には、どの教官のどのゼミに行こうが大差ないと思えてならなかった。それでも最終的に長洲ゼミを選ぶことにしたのは、先生の「社会科学概論」の講義が、私の出席していた数少ない講義のひとつだったからということが大きかった。しかし、当時の長洲先生は論壇のスターだった。そのような「花形教官」のゼミを選ぶということに、ある種のやましさを覚えないわけにはいかなかった私は、第二志望のゼミに、およそ人気のない、地味な日本経済史の研究をしている若手の教官のゼミを選ぶことで、心理的なバランスを取ろうとした。

その志望書を出してしばらくすると、教務課の掲示板に、長洲ゼミを希望する者は原稿用紙五枚以内で作文を書いてくるようにという貼り紙が出された。希望者が多いためそれによって選抜するということのようだった。

退屈していた私は暇つぶしができたことを喜び、その作文を書き上げることに熱中した。しかし、自信をもって提出した二週間後、長洲ゼミに入ることを許可された十二人の名簿の中に私の名はなかった。

私はそれを見てショックを受け、次に腹を立てた。あの作文のどこが悪かったというのだろう。別に長洲ゼミにどうしても入りたいとは思わないが、あの作文を読んでこの学生は必要ないと判断した理由は何なのだろう。先生に会ってその理由を教えてもらいたい・・・・・・。

いまになれば、そうすることで傷つけられた自尊心の回復を図ろうとしていたのだということがわかる。だが、そのときは、自身の傲慢さに気づかず、自分にはそうする権利があると思い込んでいた。

何度か先生の研究室を訪ねたが不在だった。数日後にはもうゼミの進路を決めなくてはならないというある日、私は意を決して先生の自宅に電話をした。第二志望のゼミに行くことはいやではなかったが、どうしても先生に合否の理由を教えてもらいたかった。

電話に出たのは先生の奥様だった。私が理由を説明すると、親身になって聞いてくれた奥様がこう言った。長洲はここ数日は忙しくて家にも大学にも落ち着いていないと思う。でも、明日の朝なら確実に家にいる。よかったら早朝に訪ねていらっしゃい。

翌朝、暗いうちに家を出た私は、ようやく稲村ヶ崎の先生の家を捜し当てるとベルを押した。奥様が寒いのに大変だったわねとねぎらってくれ、すぐに書斎に通された。

先生の前に座った私は、緊張したまま訪ねてきた理由を話しはじめた。

それを黙って聞いていた先生は、私が話しおわると、意外なほどやさしい口調で言った。

--私が作文を書かせたのは、合否の判定をするためではなかった。どれだけ本気で入ろうとしているかを確かめただけで、中身はまったく読まなかった。では、どのように合否を決めたのか。それは第二志望のゼミをどこにしているかによっていたのだ。つまり、私のゼミを落とされた人が、第二志望のゼミにも入れてもらえないなどということがないように、希望者が多いところを第二志望としている人を入れ、少ないゼミを第二志望としている人を機械的に落としたのだ・・・・・・。

それを聞いて私は納得した。先生はあの作文を読んで落としたのではないという。それならこちらも文句のつけようがない。素直に第二志望のゼミに行こう。そう思っていると、しかし、と先生は言った。

「どんな理由であれ、私は君を私のゼミに入れなかった。そうなんですね」

私がうなずくと、先生はこう言った。

「それは間違いでした」

私は驚いて先生の顔を見た。すると、先生はあらたまった口調でこう言ったのだ。

「私のゼミに入ってくれますか?」

その言葉にさらに驚かされた。ゼミに入れてやろう、でもなく、ゼミに入りなさい、でもなく、ゼミに入ってくれますか、と言ったのだ。

私はしばし茫然としてから、慌てて、ええ、と返事した。

いまでも、先生が亡くなったいまでも、あのときどうして「入ってくれますか」などというような言い方をされたのかわからない。

しかし、それが私にとって初めての言葉だということはその時すでにわかっていた。その言葉の底には、君は何者かでありうる、というメッセージが存在するように思えた。そして、そのようなメッセージを発してくれた「大人」は、先生が初めてだったのだ。

もしかしたら、私は二十歳からの困難な数年を、先生のその言葉ひとつを支えに切り抜けていったのかもしれないと思う。

そして、こうも思う。教師が教え子に、あるいは「大人」が「若者」に、真に与えられるものがあるとすれば、それは「君は何者かになりうるんだよ」というメッセージだけではないだろうかと。

沢木耕太郎(さわき・こうたろう)
1947(昭和22)年東京生まれ。横浜国立大学を卒業。ほどなくルポライターとして出発し、鮮烈な感性と斬新な文体で注目を集めている。主な作品:「敗れざる者たち」、「テロルの決算」、「深夜特急〈1〉~〈6〉」、「一瞬の夏」、「檀」、「チェーン・スモーキング」、「天涯〈第一〉〈第二〉」、「冠 Olympic Games」、など多数。長編小説に「血の味」がある。
長洲一二(ながす・かずじ)
1919(大正8)年東京神田生まれ。横浜高等商業学校(横浜国立大学経済学部の前身)、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。1974年まで横浜国立大学教授。その間、評議員や経済学部長を歴任。1975年から1995年まで神奈川県知事。知事在任中には、「地方の時代」、「民際外交」を訴え続け、先進的な政策を次々に打ち出した。1999年5月4日、逝去(79歳)。

(担当:総務部広報・渉外課)


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