第7回 新田 渉世さん

第32代東洋太平洋バンタム級チャンピオン
現在、神奈川県川崎市にて新田ボクシングジム主宰 東日本ボクシング協会理事
第7回は、教育学部在籍中にプロボクサーとしてデビューを果たし、現在はボクシングジムを経営されている新田さんにご寄稿頂きました。

国内はもとより、世界中で活躍している本学卒業生の近況をお知らせします。

「子連れ国大生ボクサー」の誕生!


現役時代”チャンピオンベルトをつけて”

小学6年生の時にボクシング漫画「あしたのジョー」を見てボクサーを志し、高校3年の終わり頃にジムの門を叩きました。

「ボクサーに学歴は関係ない」と考えていた私の成績はひどいものでしたが、「人と同じじゃつまらない」と考え一念発起。横浜国立大学を受験し、かろうじて合格出来たのです。

大学に入学して約1年後にプロテストに合格。大学2年の5月に念願のプロデビューを果たし、2足のわらじを履くことになりました。

更に在学中に学生結婚をして子供が生まれ、「子連れ国大生ボクサー」として話題となりましたが、3足のわらじを履いてしっかりと(?)2度の留年。友人は同級生を含めて3学年にも渡りました。その友人達は試合の度に大勢応援に駆けつけてくれました。

大学卒業が結婚の条件だったこともありましたが、目の前のハードルを飛び越えずに進めないという性質もあり、6年かけてようやく卒業をしました。

大学卒業後、教育学部で学んだ友人の多くは教員の道へと進みましたが、私はプロボクサーという、まったく別の行き方を選択し続けました。

3度のタイトル挑戦失敗を経て、デビュー10年目にしてようやく第32代東洋太平洋バンタム級チャンピオンの栄冠を掴んだのです。その間、大学を卒業して教員や社会人になった3学年に渡る友人達は、ずっと応援に駆けつけてくれました。私にとっては、この友人達が大学生活で得た最大の財産と言えます。

「何をしたいか」で決めた第2の人生

何しろ小学6年生からボクサーを志し、30歳までずっとその道で生きて来たので、引退後の人生については大いに悩みました。

私は「出来るか、出来ないか」ではなく、「何をしたいか」という発想で第2の人生を考え始めました。そして、「ボクシングジムを開設すること」と「世界平和を訴える国際ジャーナリスト」になることを目指すことにしました。

新聞社やテレビ局のアナウンサーの採用試験を受けましたが、結果は不採用でした。カバン一つで妻と2人の子供を連れて米国サンフランシスコへ渡り、大学へ通って国際政治の勉強をしようと考えましたが、生活に追われて1年で帰国しました。

次に海外赴任を目論んで企業に就職。3年間精一杯頑張りましたが、海外赴任のチャンスはめぐって来ず、新潟へ単身赴任というのが関の山でした。

ある時、かつての後援者から「そろそろジムをやったら?」と言われ、いずれはやりたいと思っていたジム開設へ踏み切り、現在に至っています。

慣れ親しんだ土地ということもあり、学生結婚をして以来、1年間の米国生活を挟んで15年間暮らしてきた小田急線の登戸・向ヶ丘遊園をジム開設の場所に選びました。

専修大や明治大などがある賑やかな学生街で、多摩川に隣接した自然と、都心へのアクセスの良さが魅力です。


新田ボクシングジム

2年連続で全日本新人王(07年度ウェルター級)輩出
(左端が新田さん、中央 岳たかはし選手、スタッフたちと)

夢は「あきらめない。」

現在、ジムには20名のプロ選手を含め、約150名の練習生が在籍しています。2年連続で全日本新人王が誕生し、日本ランカー2名が活躍しています。

選手志望の人、体力作りやダイエット目的の人、いじめられっ子、様々な人が入門して来ます。教員にはなりませんでしたが、青少年育成の一端を担うようになりました。

一見、上手くいかないことだらけのような人生ですが、「出来るか、出来ないか」ではなく、「何をしたいか」という発想でいろいろチャレンジして来たことが、思わぬ所で活かされているような気がします。勿論「国際ジャーナリスト」への夢も諦めていませんよ!

やりたいと思ったことに精一杯チャレンジして下さい。必ず道は開けると思います!


試合中にセコンドで選手に指示を出す新田さん(写真中央)

著書「リングが教室。」

さらに詳しく新田さんのお話を知りたい方は以下をご参照ください。

(担当:総務部 広報・渉外課)


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