第10回 萩原 忠臣さん

萩原電気株式会社 最高顧問 愛知県在住
第10回は本学の前身である横浜高等工業学校工学部を1933年に卒業され、現在、御年97歳でありながら、萩原電気(株)最高顧問として現役で活躍されている萩原さんにご寄稿頂きました。

国内はもとより、世界中で活躍している本学卒業生の近況をお知らせします。

電気への興味、学生時代の三無主義

小学校三年の時、北海道から東京市神田明神近くの練成小学校に転校し、東京では各家庭で電気やガスを使い、また電車が道路を走っていることに驚きました。

5年生になった時、小学校前の電気機械の古物商へ遊びに行きモールス符号の電信を聞かせてもらったことから次第に興味をひかれ、将来無線技師になりたいと思う様になりました。六年生ではコイルを自分で巻き鉱石検波方式の受信機を作りNHKの試験放送を聞いていました。

中学校1年の大正12年9月1日、第二学期の始業式が終わって帰宅し、昼食を始める前に関東大震災に遭いました。

屋根瓦は全部落下して狭い路地を埋めつくした中、ようやく脱出して上野の不忍池方面に避難しましたが、明け方の3時ごろには万世橋方面からの火災で私の家も小学校も焼けてしまい、尚火に追われて池の周辺を逃げ回ったことを今でも刻銘に思い出します。

その後、北海道の実家へ帰り、大正14年高等小学校を卒業し、師範学校本科第一部に入学しました。昭和5年に師範学校を卒業しましたが、電気通信技術者となる夢は捨て難く、幸い2年先輩の田辺氏の指導もあって、横浜高等工業学校(大正9年に設立、現在の横浜国立大学工学部)電気化学科に入学しました。


昭和8年ごろの校舎風景

横浜高等工業学校時代の校旗と科旗

当時横浜高等工業学校の学校長だった鈴木達治先生は、化学の大家であり人格者でした。先生の「人と人との心の付き合いを大切に」という言葉が強く印象に残っています。鈴木先生が講堂でお話をされる際には、講堂をはみ出すほどに多くの学生が熱心に聴講し、学生は「校長に言われれば何でもやる」というくらい学校長を信頼していました。

当時の横浜高等工業学校は、「無試験・無採点・無処罰」という三無主義でしたので、自分自身で勉強するという姿勢が求められました。試験はありませんでしたが皆よく勉強していました。私が卒業した昭和8年は就職難の時代でしたが、就職に必要な基礎科目をしっかり学習していた事もあり全員が就職できたと記憶しています。  母校とのつながりは同窓会活動を通して続いています。去る平成19年の第2回ホームカミングデーの開会にあたり、映えある乾杯をさせて頂きました事は一生の光栄に存じますと共に母校の大発展を心から喜ぶものであります。

妻と2人で始めた萩原電気


結婚時の萩原夫妻

卒業後は、旭川歩兵第26連隊に入隊し軍務に服しました。その後除隊し、昭和10年軍用通信機器メーカーの安立電気に入社し、無線電波方向探知機の試作研究に従事しました。その頃から、満州事変などの影響を受け、軍需工業の興隆が始まりました。戦闘機用無線機の量産工場で製作課長として勤務し、動員学徒と共に献身の努力をした事を思い出します。

終戦を迎え虚脱の日々でしたが退職し、当時焼け野原になっていた名古屋に転居した後、昭和21年に結婚し、二人で協力して萩原電気創業の準備を始めました。数人の協力者とささやかなラジオ修理屋を始め、日と共に電気機器の修理が増加しました。戦時中から日本電気と技術交流があったので、工事の下請けをさせてもらう様になり該当収支がつき始めました。

その後、電子技術の進歩がすさまじい中で事業が拡大し、昭和49年には本社ビルが完成し、平成になってからは株式の公開や海外進出を果たし、従業員、得意先、地域社会等に恵まれたおかげで、売上高700億円の会社になる事が出来ました。


昭和8年ごろの校舎風景

横浜高等工業学校時代の校旗と科旗

学生へのメッセージ

横浜高等工業学校を卒業し74年たった今、振り返ってみると人と人とのつながりと信頼関係の大切さを痛切に感じます。現在の打算的で利益があれば何でもする物の考え方には抵抗があります。人と誠心誠意最後まで付き合う、奉仕の精神を忘れない事が大切だと思います。学生のみなさんには、どこにいっても大丈夫な様に学生のうちに基礎学科をしっかり身につけ、何か1つ自分の得意な事を見付ける事をお薦めします。


学長訪問の様子

(担当:総務部 広報・渉外課)


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