豊歳 直之 1936年生まれ。大学卒業後、大阪商船株式会社入社。69年パラグアイに移住後、2009年までToyotoshi S.A.会長などを歴任。同年10月駐日パラグアイ共和国特命全権大使就任。

パラグアイの大学と学術協力協定

藤掛 横浜国立大学は2012年9月、パラグアイの国立アスンシオン大学と学術協力協定を締結しました。パラグアイの大学と学術協力協定締結に向けて豊歳大使には大変ご尽力いただきました。どうもありがとうございました。

豊歳 こちらこそありがとうございます。ひとえに、パラグアイにおける藤掛先生の長年にわたる貢献の実績があったからこそ実現できたと感謝しています。

藤掛 私が初めてパラグアイを訪れたのは93~95年、国際協力機構(JICA)(*1) の青年海外協力隊として農村女性や子どもたちの生活改善のためのプロジェクトを行うとともに幼稚園建設の支援を行いました。その後、ミタイ・ミタクニャイ(子ども)基金(以下、ミタイ基金)(*2) を設立し、成長した子どもたちのために小学校をつくる活動を続け、これまでに4校を建設してきました。12年に本学に着任したところ、学生たちから5校目の建設は、自分たちの力でやってみたいという無謀でもあり、頼もしい申し出があり、研究室として取り組むことになりました。それを機に、できれば現地の大学と提携したいと考え、無理を承知で豊歳大使にご相談させていただきました。

豊歳 ちょうど、神谷駐パラグアイ大使(当時)が、アスンシオン国立大学と日本の大学の学術交流協定を考えておられて、ゴンザレス学長を日本にお招きすることになっていましたので、タイミング良く、藤掛先生のお話をさせていただくことができました。

藤掛 そこからは、両大使館、外務省などのご協力もいただいて、通常は1年くらいかかる交渉や手続きをわずか3週間という異例のスピードで進み、無事調印という運びになりました。
 おかげさまで昨年夏、私のゼミの学生・大学院生計18名が実際にアスンシオン国立大学を訪問し、合同ワークショップを開催し、学生や教授の皆さんと交流を持つこともできました。

豊歳 次はぜひ、パラグアイの学生の日本訪問を実現したいですね。そして、セミナーやもう少し長期の留学など、双方向で発展させていきたいところです。ただ、問題が無いわけではありません。

 一つは言葉。日本でスペイン語を学ぶ学生も多くはありませんが、あちらで日本語を学ぶ学生はさらに少ないのです。

 もう一つは、学生にとっての連携のメリットを高めるために、日米の大学などでは一般的に行われている取得単位の融通制度を、この両校間でも作れるかどうかということです。

藤掛 それらについては今後の両国の学術・研究教育領域での協力関係を深める意味でも、努力していきたいと思います。

*1 当時は国際協力事業団
*2 パラグアイの先住民族の言語であるグアラニー語で、ミタイは男児、ミタクニャイは女児を意味します。

好奇心で訪れた国の大使に

藤掛 南米大陸の内陸に位置するパラグアイ――世界中の情報がインターネットを通じて簡単に得られる現在でも、日本人にとってはあまりなじみのある国ではありません。その国に私は20年ほど前から魅せられて、かかわり続けているわけですが、大使は初めて現地を訪れられて50年以上が経つそうですね。きっかけは何だったのですか。

豊歳 実は、ただの好奇心からです。61年、私はアルゼンチンに滞在していたのですが、パラグアイへ飛び立つ水上飛行機を見て、そのゆく手にどんな国があるのか、どうしても知りたくなってしまい、すぐに次の便に乗ってしまったのです。
 行ってみると、まだ自動車などほとんどなく、街中でも裸足で歩いている人が多いような貧しい国という印象でした。でも、とにかく人々が親切で明るかったのを覚えています。

藤掛 その点は、今でも変わっていませんよね。皆さん朗らかで、多忙すぎる私たち日本人がややもすると忘れてしまったかもしれない他者への思いやりを持っていますよね。

豊歳 私は、この国で商売がしたいと思いました。当時アルゼンチンなどは、自国の産業を守るために、高率の関税をはじめさまざまな規制を設けていました。それに対し、工業化が進んでいなかったパラグアイは、輸出入も比較的自由で、ビジネスに関しても魅力的な環境でした。こうした環境は今も基本的には変わっていません。
 それで、さっそく日本製品の売り込みを始め、69年には移住してしまいました。

藤掛 洋子 横浜国立大学大学院 都市イノベーション研究院 教授。博士(学術)。専門は、開発人類学、ジェンダーと開発学、パラグアイ地域研究。パラグアイ共和国農村部の女性や子どもを支援するためにミタイ・ミタクニャイ基金を設立。

藤掛 JICAや企業、移住者の方々なども、パラグアイは「エルドラド(黄金郷)」だとよく言われます。それは国民の人柄が素晴らしいというだけでなく、農業にしても工業にしてもビジネスの可能性があるということなんですね。

豊歳 もちろん、問題も抱えています。35歳以下が73%を占めるという、日本とはま逆の人口構成。75年に着工した当時世界最大のイタイプダム建設による「ブーム」がありましたが、竣工してしまうと、とたんに彼ら・彼女らの雇用は途切れました。大豆や牛肉の輸出が伸びて高い経済成長を示しているのですが、農業分野は機械化が進み、雇用につながらないのです。

 やはり工業化は不可欠。そこでいま、優遇措置を講じて海外からの投資を募るなど、努力しているところです。

藤掛 ご自身の会社設立、日本からの投資の誘致、雇用の創出についても、大使は多大な貢献をされています。
 帰化されているとはいえ、生まれも育ちも日本。パラグアイの特命全権大使に抜擢されるというのは、かの国で絶大なる信頼と尊敬を勝ち得ていらっしゃるからこそですね。

日本を知ったうえで、世界を体験せよ

藤掛 単身南米に渡り、次々と事業を成功させ、大使にまでなられた。私は「グローバル人材育成」という言葉には少し逡巡する立場なのですが、あえて使うとしたら、大使のような方に対してだと思うのです。未知の世界に分け入っていくチャレンジ精神と、そこを自ら開拓していく力、それこそが今、求められている資質なのではないかと思うのです。

豊歳 企業のグローバル化というと、いまや本社機能の海外への分散・移転も当たり前になっているわけですが、人がグローバルに活躍しようとするときには、根無し草になってはいけない。これは、パラグアイの社会に溶け込もうと躍起になって、自分が日本人であることを忘れかけた、私自身の反省でもあります。実はいま、一生懸命、忘れかけた日本人の心を育成しているのです(笑)。
 ですから、日本の若者にはまず、日本のことをしっかり学んでほしい。そのうえで世界を学び、できれば実際に海外に出て体験してほしい。自転車でもスキーでも、体で覚えたことは忘れませんから。

藤掛 日本を知るためにも、一度外に出て、違う視点で自分の国や文化、人々を見てみることは大切ですよね。その意味で、パラグアイにお邪魔した私のゼミ生たちはよい体験をさせていただきました。わずか1カ月弱の滞在でしたが、あちらで、都市・農村に居住されるパラグアイ人、日系人とたくさんの方たちに会い、お世話になり、パラグアイの生活に触れることができました。
 私は授業やゼミを通して、世界の人たちとの互恵(ごけい)の関係や、生かし生かされることの意味・意義、上から目線ではない国際協力について伝えているのですが、今回の滞在とフィールド調査活動を通し、そのことを具体的に考えるきっかけにしてくれたのではないかと思っています。

 そして何より、あちらの子どもたちや若ものたちの触れ合いや、日本について学びたいというあの熱いエネルギーに触れ、そこからは大きな刺激を受けたと思います。

豊歳 いや、今回のオリンピックなどを見ると、日本の10代も捨てたものではありませんよ。

藤掛 たしかに、「内向き」とは言われますが、意欲の問題というより、経済的な問題なのかもしれません。海外に行くにはお金がかかる。特に南米は遠いですから。したがって、お金を工面できる若者だけが海外に向かうことができるのかと。しかし実はびっくりしたのですが、ゼミ生たちが再びパラグアイに行く計画を、自分たちで立てているのです。

豊歳 パラグアイもそうですが、途上国には、先進国にはない大きなチャンスが転がっています。日本の若者が、そのことに気づいて、これまで日本人があまり行かなかったような国での活動やビジネスにも、積極的に挑戦していってくれたら嬉しいですね。

藤掛 はい、ぜひ豊歳大使の生き方から学んでほしいと思っています。本日はありがとうございました。