藤嶋 昭(Akira Fujishima)

藤嶋 昭(Akira Fujishima)/ 東京理科大学 第9代学長 、同大 光触媒国際研究センター センター長

1942年生まれ、東京都出身。1966年 横浜国立大学 工学部 電気化学科卒業。神奈川大学 講師、東京大学 教授、東京理科大学 第9代学長などを経て現職。KSP光触媒ミュージアム館長、NPO法人かわさき市民アカデミー理事長などを併任。文化功労者、文化勲章受賞、横浜国大名誉博士、横浜国大プラウド卒業生。専門は光電気化学、機能材料化学。光触媒反応の発見者。

藤嶋 昭(Akira Fujishima)

藤嶋 昭(Akira Fujishima)/ 東京理科大学 第9代学長 、同大 光触媒国際研究センター センター長

1942年生まれ、東京都出身。1966年 横浜国立大学 工学部 電気化学科卒業。神奈川大学 講師、東京大学 教授、東京理科大学 第9代学長などを経て現職。KSP光触媒ミュージアム館長、NPO法人かわさき市民アカデミー理事長などを併任。文化功労者、文化勲章受賞、横浜国大名誉博士、横浜国大プラウド卒業生。専門は光電気化学、機能材料化学。光触媒反応の発見者。

モチベーションと行動力を
フルに生かした学生時代

長谷部藤嶋先生は本学のご出身でいらっしゃいますが、在学時はどんな学生だったのでしょうか。

藤嶋学部 2, 3年生の時に、安く有効に夏休みを過ごそうと、友人数人と地方での『出前授業』を行ったのをよく覚えています。地方の教育委員会に往復ハガキでお願いして、中学校の校庭に生徒を集めて3日間特別授業をやったんです。私は理科、友達は数学や英語と担当を決めて。学校の宿直室などに泊めてもらって自炊しました。2年生の時に山陰に行き、3年生では青森がスタート地点で旅行しながら南下していきました。

長谷部呼ばれたのではなく、自ら掛け合ったんですね。

藤嶋その時はとにかく積極的でしたね。授業では、救急車のサイレンの音でよく説明される『ドップラー効果』は実は星の光にもあるんだよ、といったようなことを教えていました。赤い星は遠くにいて、青い星は近くにあるんだよと。

長谷部現在も小学校や中学校をご訪問されていますが、次世代を担う子どもたちへの教育を当時から大事にされていたんですね。今ならインターネットもありますし、それだけの行動力があればできることはたくさんありそうですね。

藤嶋春休みには、朝永振一郎先生(日本の物理学者)の『量子力学』I・II 巻を読破しようと伊豆の民宿で合宿をしました。朝ジョギングをして、あとは本を読むだけにしておくとお金をあまり使わずに済んだので、読み終わった後に「あそこに見える島へ行こう!」と、船で伊豆大島へ行き山登りをして帰ってきました。

長谷部それはまたずいぶんと密度の濃い学生時代だったんですね。

藤嶋当時の友人たちとは今でもすごく親しい間柄です。

「量子力学勉強会」メンバー写真

写真中央が藤嶋さん(在学時)。伊豆妻良の民宿に泊まって「量子力学勉強会」をしたメンバーと民宿のご家族と

長谷部 勇一(Yuichi Hasebe)

長谷部 勇一(Yuichi Hasebe)/ 横浜国立大学 学長

1954年生まれ、東京都出身。1984年より横浜国立大学 経済学部 助教授。96年 同 教授。同大にて国際社会科学研究科長、情報基盤センター長などを経て、2015年より現職。専門は比較経済システム、産業連関分析。

長谷部 勇一(Yuichi Hasebe)

長谷部 勇一(Yuichi Hasebe)/ 横浜国立大学 学長

1954年生まれ、東京都出身。1984年より横浜国立大学 経済学部 助教授。96年 同 教授。同大にて国際社会科学研究科長、情報基盤センター長などを経て、2015年より現職。専門は比較経済システム、産業連関分析。

オイルショックがきっかけで
注目された『光触媒』

長谷部その後取り組まれた光触媒の研究は、周りに理解されるまでにご苦労されたそうですね。

藤嶋光触媒の原理ができたのは、東京大学大学院での 1, 2年生にかけての時でした。植物の葉の表面で起こる光合成反応を人工的に行ったもので、葉緑素の代わりに酸化チタンという光を感じる材料を使って水を分解することができました。でも、当時は学会で発表してもなかなか信用してもらえず、博士号を取るのにも苦労しました。

イギリスの権威ある科学雑誌『ネイチャー』で論文が採用されたのは、オイルショックの前の1972年。 神奈川大学で講師をしていた時のことです。水を分解するということは酸素と同時に水素も出ますから、 そこが注目されて、日本の新聞でも74年に「日本人が自ら水素を作り出せると発表した」とトップで紹介されました。そこでようやく、皆さんに信用してもらえるようになりました。

長谷部その後は、抗菌効果が高い事も明らかになり、快適な生活空間をつくる事を目的として、環境問題への適用がどんどんと広がりましたね。

藤嶋現在では、病院の床や壁に付着する菌の撲滅、セルフクリーニングする外壁塗装などの実用技術として世界中で使われるようになりました。

長谷部世界に誇る日本発のクリーン技術として定着していますよね。

著書表紙写真

著書:『第一人者が明かす光触媒のすべて』(ダイヤモンド社)

2018年近影

光触媒国際研究センター 植物工場にて(2018年度)

研究を世の中に役立てるために不可欠な産学連携

長谷部産学連携ということにおいても、先生は東京大学時代からいち早くから取り組まれていましたね。あの当時はまだ風当たりが強かったのではないでしょうか。

藤嶋研究の成果は、論文として発表するだけでなく、世の中の役に立たなければだめだというのが私の考えです。一緒にやっていただける企業の方がいらっしゃれば、どんどん共同研究を提案し、製品化していく。批判は特に気にしていませんでした。製品化しても、たくさんの方に使っていただける商品となるものはほんのわずかですからね。

私の研究目的は「人が天寿を全うする」ことです。今は人生120年時代ともいわれますが、その天寿を全うするためには、エネルギーや空気、水がきれいであることが不可欠です。そういった意味で、殺菌ができるなど人や環境に良い作用を与えることのできる光触媒の研究は、とてもやりがいがあります。

長谷部本学も現在、産学連携はとても重要だと考えています。企業の皆さんに大学と連携していこうと思っていただくためには、どのようなことが重要だとお考えになられますか。

藤嶋まず技術が本物であること。やはり企業としては採算が取れないものに動くわけにはいきませんから、インパクトの大きさも重要になってきます。そのために一番大事なのはセンスですかね。「これはすごい! 世の中に役立てられるぞ!」とピンとくるセンスを磨くには、日頃から基礎をきちんと勉強し、ありとあらゆることに関心を持ち、アンテナを張っておく必要があります。

長谷部先生はメーカーの方たちとのお付き合いにも非常に長けていらっしゃる印象があります。

藤嶋研究者とディスカッションをして理解してもらうだけでなく、製品化まで持っていくためには、企業のトップや重役に直接プレゼンテーションをして説得できる力も必要になってきます。部長クラスの方たちには責任があり、キャリアもかかっていますから、失敗を恐れて及び腰になってしまうこともあります。私がこれまで成功したと思えるケースは、超一流企業の社長に理解と責任を持っていただいたことでうまく進みました。

長谷部トップセールスが非常に大事だということですね。本学でも、研究推進機構が中心となって、企業の方と5年・10年といった長期的な連携のビジョンについてお話を進める中で大手企業のチーフテクノロジーオフィサーといったトップに立つ方々とお話ができる機会も増えてきました。新たな産業を生み出す芽となる研究や事業化が見込まれる研究シーズを紹介しながら、企業の中で求められているものとうまくマッチングできればと考えています。

*

双方向の国際交流でチャンスをつかむ

長谷部本学では、地域と世界の持続可能な社会の実現のために『グローバル・エクセレンス大学』というビジョンを掲げ、実践的学術の国際拠点を目指しています。グローバル人材の育成には、語学力だけでなく、異文化適応能力や主体性といった資質、グローバルな視点で構想し発信する力を身に付けるためのプログラムが必要です。

藤嶋先生は早くから海外との学生交流にも取り組まれていますが、どのような経緯でスタートしたのでしょうか。

藤嶋東京大学で教授をしていた時、当時でいう助教授と助手は教授が選任することができたのですが、その時アメリカ人を採用したことで研究室は英語でのコミュニケーションがほとんどになりました。

長谷部当時外国人を助教授や助手にする先生は多くはなかったと思います。そうしたところから国際化を始めていたんですね。

藤嶋研究室にはルーマニアを含むヨーロッパ諸国やインド、中国、韓国などあらゆる国から来た留学生がいました。特に中国からは40人ほどが来ていましたが、博士号を取って帰国した人は皆今でも大いに活躍していますよ。海外から帰国した若手の助教授を教授にするという制度がちょうどあって、北京大学に戻って30代前半で教授になった教え子もいました。教え子のうちの3人は、中国における科学分野における最高位の称号である中国科学院の『院士』となりました。

長谷部先生ご自身も数少ない外国籍院士でいらっしゃいますね。

藤嶋私は中国工程院の院士ですが、日本人では確か私が初めてでしたね。私が2代目の中国総合研究交流センター長を務めたJST(科学技術振興機構)では、中国で頑張っている教え子8人が『縁遇恩師 ―藤嶋研から飛び立った中国の英才たち―』という冊子を発行してくれました。2018年度も、年5回ほどは中国に行き、日中の科学技術交流の促進を続けています。

長谷部先生とは中国大使館教育部の新年会でよくお会いしますが、中国の大学関係者から本当に尊敬されていることが伝わって、いつもそのすごさを感じています。

私も経済学部で教えていた時は、20年前ぐらいからインドネシアやネパール、中国などからの留学生が増えてきました。英語の論文を読んだり、英語で発表したりといった経験は、当時の日本人の学生にとっても非常に良い刺激となっていました。特にインドネシアやネパールの経済の問題を細かく調査・分析したことで、海外のそれぞれの国が特有な事情を持っていることがわかってきます。そういった国際的な視野を持つためにも、留学生との交流を拡げ、深めることはとても大事なことですね。

本学での留学生の受け入れは、2017年に1千人を超えました。全在学生約1万人のうちの1千人ですから、10パーセント以上です。今後も受け入れ留学生、日本人学生の短期も含めた海外派遣を積極的に増大させたいと思います。

藤嶋留学生を受け入れると、世話役の学生はホテルからの送り迎えや食事などで共に時間を過ごすため本当に仲良くなります。国際交流においては特に双方向の派遣や関係づくりが重要で、世話役を務めた学生を今度は相手の国へ送り出すことも、今後もっともっと積極的に行っていくべきだと考えています。きっかけを与えて友達をどんどん増やせばさらに留学しやすくなりますし、チャンスを増やすことにつながります。

今現在センター長をしている東京理科大学光触媒国際研究センターでもアジアを中心に学生を招き、年間で数十人の留学生を受け入れています。共同研究や食事会などで学生同士の交流が深まり、日本人学生も刺激を受け、海外に行く学生も随分と多くなりました。こうして、光触媒技術を通して人脈が世界に繋がっていくことは大変嬉しいことです。

長谷部本学の取り組みとして、積極的な海外交流の場として10年ほど前から提供している一つに経済学部の英語討論会があります。ヨーロッパの場合は本学からの派遣のみですが、中国の北京師範大学とは双方向で、最初に北京へ行って議論をした後、半年後には中国からの学生を横浜に招き、こちらで講義を聞いたり企業視察をし、最終日に英語討論会でお互いのリサーチを発表します。最近では経営学部でも同様の取り組みを行っています。

日本の学生はどうしても英語の苦手意識があって、最初はぎこちなく話しているように見受けられるのですが、3カ月ほど準備をして原発や高齢化、福祉の問題などテーマを決めてディスカッションするという経験を積むと、だんだんと自信をもって、多少間違った英語でも自分の伝えたいことを言うことが大事だと気付いてくれるんですね。そうして英語の抵抗感をなくすこと、そして藤嶋先生のおっしゃるようにやはり友達をつくることが、将来に一番つながってくることだと思います。

国際交流は受け身だけではなく、積極的に海外に行けば絶対に何か掴めるということを学生の皆さんにはぜひ知ってほしいですね。

2016年写真

光触媒国際研究センターメンバーとの写真(2016年度)

2017年写真

横浜国立大学・経済学部の欧州英語討論会での発表の様子(2017年度)

同級生が語る藤嶋先生

相澤益男近影

相澤 益男

横浜国立大学 工学部 電気化学科 1966年卒
国立研究開発法人科学技術振興機構顧問
東京工業大学名誉教授・元学長

敬愛する親友藤嶋昭君との出会いは、1962年の工学部電気化学科入学に遡る。在学時のエピソードが特に有る訳ではないが、卒業研究をどこにするか、大学院進学をどうするか、未来を語り合ったことが懐かしい。それぞれ別の大学院に進み、光電気化学と生物電気化学といった新しい分野に挑んだ。横浜国大を離れた後に、いつしか新しい電気化学を牽引する立場にそれぞれがなっていた。未だに売れ筋となっている「電気化学測定法、上・下」(技報堂出版)を共に執筆したことは生涯の思い出だ。電気化学会の会長を同期生が相前後して務めたこともまったく異例。つながりはますます強く深くなるばかり。数多の栄誉に加えてもうひとつと期待するのは私だけではあるまい。

井上誠一近影

井上 誠一

横浜国立大学 工学部 応用化学科 1966年卒
名教自然会(理工系学部同窓会)会長
横浜国立大学名誉教授
公益財団法人横浜工業会理事長

藤嶋さんが在学された昭和30年代後半の横浜国大工学部は、「旧制大学に追いつけ、追い越せ」「大学院博士課程の設置」を目標に熱気に溢れていました。教育面では専門教育と共に工学基礎科目と卒業研究に力を入れていました。そのような雰囲気の中で電気化学の基礎を修得された藤嶋さんが東京大学大学院修士院生時代に、50年後に文化勲章の栄誉を受けることになる大発見をされたのは、同窓生にとって、また横浜国大にとって大変誇らしいことです。振り返ってみると藤嶋さんのずば抜けた好奇心と行動力が全ての原点のように思えます。藤嶋さんは今でも横浜国大の教壇に立たれていますよ。